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ワールドメイトでは「神仕組み」「一厘」などという言葉がよく用いられていました。これは、私の知る限りでは大本(教)系の言葉という印象があります。「残りの九分九厘をひっくり返す一厘の神の存在」として「鍵」や「神髄」のように、ワールドメイトでも用いられていたと考えています。 大本系・古神道などのムーブメントにおける「一厘」の意味や霊的・宗教的な部分や教義につきましては今回言及しません。また、それらの言葉について性急に知識を仕入れることもお勧めいたしません。身近な人がはまり込んでいるであろう知識や専門用語を知りたいと思われる気持ちも分かりますが、興味本位で踏み込むのはリスクが伴うからです。 ( 少なくとも、私自身は「現時点では神示系の文言に価値を見ていません」。古神道という一連のムーブメントにも少なからず疑いの目をもっています。ですが、古神道を標榜する宗教や教義を否定するわけではありません。カルトに相対するにあたっては、ご自身の信仰も、大きな支えとなりましょうから...。 )
それは、「キーワード」として用いられる特殊な「専門用語」です。
ワールドメイトにおける「一厘」とは。手段だけを見れば、詰まるところ「全否定のキーワード」です。 では、なぜ一厘をつかめば残りの九分九厘を支配できてしまうのか? それは、「会員個人のリアリティはすべて会員本人に内在しているから」ということに尽きます。 会員がワールドメイトや深見東州氏に傾倒しはじめる切っ掛けの一つに、神示や秘法会などでいわゆる「神秘体験」を体験することが挙げられます。「体外離脱」や「見えないはずの物が見えたり、聞こえたりする」など五感の変容を伴い、ときには人格にも影響を与えることがあります。これらも宗教色を排してとらえるならば、現象自体は「催眠誘導における変成意識状態」とそう変わりはありません。そして、無意識のうちに会員の情動は指導者である深見氏の話に潜む「キーワード」によって誘導されていくようになるのです
しかし、それら神秘体験は神の存在や団体の教義の正しさを必ずしも証明するものではありません。 もう一つ、「一厘」の弊害としてあげられることは、「論理的な思考を奪う」点です。ワールドメイトでは「論理的な思考や理屈っぽい人は秘法会を受けても効果が薄い」「神霊に感応できない(神や霊を感じとることができない)」という主張を教団が行いますが、それも「ワールドメイト流のプロテクト」だと言えます。暗に「批判的な思考で秘法や祈祷を受けても効果は薄いよ」という誘導をおこなっているだけなのですが、催眠誘導の手法としてみれば効果的な前振りだとも言えます。
それらの批判が、会員や組織内のコミュニテイによる自浄作用なり、外部の意見なりで問題視されたり改善されるならば、組織の健全性を期待できることでしょう。
こちらではそのようなかたがたに向けて、なにがしかの一助と思い、世界中に愛をワールドメイト関連の回想と現状の考察を兼ねて「カルト宗教の“一厘”」について述べてみた次第です。上に述べたような「悪意あるプロテクト」「心に打ち込まれたくさび」の存在が、世界中に愛をワールドメイトにも存在する、という事をまず認識していただきたいのです。
もし、対話を求めた批判者や告発者が仮に「教団関係者に訴えられたり」「脅迫されたり」、あるいは監禁や暴行された、という事実が明らかとなった場合には。それはまた次の段階の話になります。 なにより、それらの事実が明らかになった時、教団の内と外で異なる言説を使い分けはじめた時。その団体は「カルト」と呼ばれることになるのではないでしょうか? 世界中に愛をワールドメイトにそのような事実が存在するか否か?この場では、あるいは現段階ではあえて明言しません。 ただ、この場では心を縛る「プロテクト」の存在を明示して、実際に苦しむかたがたの心を緩和したいだけなのです。 「世界中に愛をワールドメイト側の言説では救われない」こころを。 |
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世界中に愛をワールドメイト、もしくは主宰である深見氏に疑問を持ち、彼らの影響力から適切な距離をとる、もしくは脱会をするにあたって、当事者並びに周辺の人々は多大なエネルギーを消耗する事になります。
会員であったならば、精神的支柱、もしくは依存の対象であった存在を裏切ったもしれないという罪悪感や、神示などに含まれる危機感を煽るメッセージへの恐怖などに対処しなければならず、退会したばかりの会員にとってそれは容易ではありません。 退会者が本人の意志で退会した場合、周囲は極力理解を持って接してあげて下さい。 これは、会員であった時と同じように、あるいはそれ以上に、周囲の人間は理解と忍耐と、愛が試されるからです。 特に「会員時の言動を責める」「批判する」「否定する」「(社会復帰を)急かす」などの衝動に向き合い、どう消化するのかという点に周囲は特に留意する必要があるでしょう。 おそらく、当事者の周辺にいる皆様はこう思われるでしょう。 「なぜ脱会者にワールドメイト批判をしてはいけないのだ?」 「世界中に愛をワールドメイトや深見氏は全くのインチキじゃないか!」 「○○(当事者)は、だまされていたのよ!」 などと。 もちろん、批判したい気持ちや衝動を否定するつもりはありません。 そして、それらの衝動を行動に移す、という過程もまた...個々の差はあれ必然だと思います。 ただし、あくまで過程としてです。 できれば...なるべくしない方がよいのです。 カルト脱会を身近に感じてもらう一つの例として、禁煙や禁酒、ダイエットについて想像してみて下さい。 「(タバコ、アルコール、肥満が)身体に悪いのは知っているよ」「いつでも止められるさ」といいながら止められないというケース。 あるいは害悪を理解していながら「でもまぁ、落ち着くから」「ストレスはかえって健康に悪いよ」と現状を弁護し出す人々のことを。 禁煙やダイエットを始めながら、再びタバコや酒に手を出してしまう割合は思いのほか多いと聞きます。ダイエットに成功した人が数年後にリバウンドしてしまったり、体型や体重を維持できなかった割合もまた、一定の割合で存在するのではないでしょうか。 禁煙を、達成できた、さぁ一服。なんていうと冗談なようですが、ダイエットではよく見かける光景だと思います。しかし禁煙も禁酒もダイエットも...本質は、一生続くという事なのです。 ところが、何かと理由をつけてふたたび酒やタバコやジャンクフードに手をだしてしまったとき。 再び舞い戻る失意、誘惑と衝動、リバウンドなどの心身の悪影響から逃れる事は容易ではありません。 これらは何度でも繰り返す可能性があり、繰り返す内に、ダメージを受け続けるのです。 内面に、傷を負い、自分で自己評価を下げ続けるのです。 それは、心の耐性を弱め、再び罹患する可能性を高めることになります。 つまり、他教団やカルトなど精神的依存の対象を変えて放浪し続けることに他なりません。 新しいダイエット法が流行るたびに飛びついては失敗する人々のように。 それらを第三者の立場から批判するのは容易でしょう。 でも、その心情を理解し、サポートする立場であった場合。 かつての中毒にあった状態を批判し、当時の行動を責める事はふたたび依存対象へ手を出すというきっかけを作ることになるかもしれません。対象を崖の縁に追いやり、突き落とす事につながるかもしれません。 また、退会者が突然「ワールドメイト会員であった自分」を否定・批判し始める、という時にも留意しておいて下さい。 自らを省みることで、かつての自分を消化し、次のステップに進めます。そんな中で、かつての自分を否定するというのは、勇気のいる事でしょう。 ですが、そういうプロセスなしに、かつての自分をいきなり全否定するという事は、自らの一部を否定し、切り離すという事です。 しかし、認められない自分、許し難い自分というものは、姿を変えて心を責めます。 逆を言えば「そこを責められると弱い」という事なのです。 周囲の支援者にしろ、引き留める側の教団にしろ、遠慮無く退会者を責め立てるならば、自らもまた自分を責めるのです。誰も認めてくれないから、自分も自分を切りつけねばならないのです。 それは、とても気の毒な事だと思います。 そして、もう一つ気になる事があります。 それは、退会・脱会後の挫折や不満のはけ口として「ワールドメイト会員であった自分」が攻撃や逃げの対象になる事です。 「ワールドメイトに入らなければ、あれもできた、これもできたはずだ」 「ワールドメイトに費やした金額で...」 「あんな団体に入りさえしなければ...」 などをくりかえし、現状から脱却できないようになってしまう。 これもまた一時的な過程に過ぎないのならばそれはそれでよいのですが、これが恒常的になりますと逆の意味でワールドメイトに拘泥してしまっている状態だと言えます。 延々とワールドメイトへの呪詛を垂れ流し続ける、という状態がこれからの人生では本末転倒です。 これら退会・脱会者へのサポートを行うにあたって、当事者並びに周囲ができることは何なのでしょうか。専門的なことは数多くあるのでしょうが、一つあげるならば「全部を“過程として”認めてあげる、あるいは理解を示すこと」だと思います。 一つの例としては、「発展的退会」という方法があります。 身近な例で言えば西谷氏など、幹部的他立場にいた人がワールドメイトを退会するときに用いた方法論を使えばよいのです。近年の例で言えば、手相家として活躍されている西谷氏のように。 「ワールドメイトにいた自分」はあくまで通過点に過ぎないのだと言うこと。 ワールドメイト会員として周囲に迷惑や心配を掛けた自分も、今に至るに必要な過程であったこと。 回り道や、間違った方向に進んでいたとしても、やり直しはきくのだということ。 ワールドメイトで失った以上に、これから得られるものは大きいのだと決意すること。 周囲と、ワールドメイトにいた自分に感謝すること。 そのうち、「世界中に愛をワールドメイト」の宗教観や枠組みが、小っちゃく思えるようになります。 そのときこそ、本当に意味でワールドメイトを消化し、決別できたと言えるのではないでしょうか。 その時には、世界中に愛をワールドメイトの批判も、悪意なく愛をもってできるようになることでしょう。 |
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